雨橋のつぶやき日記

ゲイの文系院生、考えたことをつらつら書いてます。

結局、異性愛者支配社会?

こんばんは。

本記事は持論です。不満を漏らしています(笑)

 

今やゲイタウンとして名を馳せる新宿二丁目

個人的には好きです。

初めて行ったのは大学2年かな?

うわぁ、、、こんなエリアがあるんだ!

といい意味で驚いたのを覚えています。

今でもたまに友達と行くことがあります。

 

さて、そのようなゲイコミュニティ。

以前授業で「ゲイコミュニティの解体」について

話し合う機会がありました。

 

一つの意見として、こんなのがありました。

「セクマイを差別してはいけない!

みんな仲良くしよう!」となる。

わけるから差別が生まれるんだ!

分けなきゃいい。ゲイバーは「ゲイの場所」だ。

みんなゲイバーをやめて、

異性愛者とともに「普通」に暮らそうぜ!

→コミュニティの解体。

「平等」な世界となると、

そのような「色」自体もなくなることになる

という考え方です。

 

パッと聞くだけでは論理はぐちゃぐちゃです。

以下まとめると

セクシュアリティ」の違いによる

「差別をなくそう」という傾向が過激になると、

「違い」をないこととすればいい!となり、

そのような「コミュニティ自体」が

「違い」をもとに作られているので

差別を温存してしまうという理論です。

 

私は差別は無くなって欲しいですが、

ゲイコミュニティはあり続けて欲しいです。

セクマイ史に詳しい方はご存じかもしれませんが

昔ストーンウォール事件というものがありました。ニューヨークにおいて、

ゲイへのヘイトが厳しかった時代、

とあるゲイバーへの警察の嫌がらせに

業を煮やしたゲイが

急遽ラディカルな反撃に出た事件です。

 

ゲイに対する抑圧があった結果、

居心地を求める地となっていたゲイコミュニティ。

それをいざ「差別しないから出ておいで!」

とコミュニティ解体を促すこととなった場合、

いや、それはあまりにもムシが良すぎるだろ!と

思ってしまいます。

仮に「解体を促す傾向となった場合」ですがね。

 

これはカミングアウトにも似たことが言えます。

「え!ゲイなの!早く言ってよー」

「いや待て、勝手に私を異性愛者だと思ってたのは

アンタの方やないかーい!」みたいな。

元はと言えば社会が「異性愛前提的な雰囲気」を

持たなければこんなことにはならなかったのでは?

カミングアウトは美談化されることがあります。

「勇気」や「信頼関係」という風に。

 

カミングアウトは相手を異性愛者だと

決めつけなければそもそも存在しない概念です。

 

カミングアウトが不要な世界、

おそらく私が死ぬまでには来ないと思いますが。

 

とまぁ今日はだいぶ不満げになってしまいました。

反省。

明日からまた頑張りましょー。