雨橋のつぶやき日記

ゲイの文系院生、考えたことをつらつら書いてます。

私はゲイだけど不幸ではありません。

本記事は個人の意見です。

 

定期的に、LGBTに関連した「炎上」がおきますね。

 

1年か2年周期で、

とある人物の発言が

物議を醸しているような気がします。

そして今も、某ニュースが炎上していますね。

 

昨年か一昨年かには、

性的少数者を異常動物呼ばわりする人がいたり、

保毛男田保毛男が放送されたりされましたが

どれも記憶に新しいです。

 

ふとある騒動が静まって、しばらくしたころに

別の炎上が起こっているような感じがします。

 

 

 

さてさて、私はゲイですが、

タイトルにあるように不幸ではありません。

 

 

 

そもそも

不幸ってなんですか?

私の不幸と他人の不幸は違いますよね。

 

ありきたりな言い回しですが、

大金持ちで不幸な人もいれば

貧しくても幸せだと感じる人もいます。

 

家族とともに過ごせることが幸せな人もいれば

一人で生きることが幸せな人もいます。

 

そうした中で、

幸せの形を決めつけないでほしい。

 

私も昔は、

結婚して子どもを授かって、

孫に囲まれながら人生を終えるのが

いわゆる幸せなのかと思っていました。

 

しかしながら、

私は今、自分がしたいことをできている点で、

決してお金は無くとも、時間は無くとも、

幸せです。

 

学齢期は、正直不幸だと思っていました。

味方がいなかったからです。

 

しかしながら、今では違います。

 

いわゆる恋話をして、理解者にも出会えて、

むしろゲイだったおかげで多くのつながりができ、

良くも悪くも多角的な見方が

できるようになりました。

 

ゲイ=必ずしも不幸

という等式は成り立たないと思っています。

 

勝手にゲイが幸せだとか、

ゲイは不幸だとか決めつけないで欲しいです。

 

私たちなりの幸せの基準が、

正確に言えば個人レベルであるわけですから。

 

 

 

以下はあくまで私の持論ですが、

セクシュアルマイノリティの人たちが

何もしなくて、いわば受け身でいいか?

と問われれば、

正直そうではないと思っています。

 

かといって、カミングアウトを強要したり、

そう言うことを言いたいのではありません。

 

しかし、何か行動を移さないと、

変えたいものは変わらないと感じました。

 

変えたいと思う人で、かつ行動できる人が、

できるときに、少しずつ

相手と「交渉」していくことが大事だと思います。

 

ある種出来上がってしまっている

異性愛中心的な構造は

かなり強力なもので、

ちょっとやそっとじゃ変わりません。

ある意味私は諦めのスタンスで、

待っていても現状は良くならない。

 

手をこまねいていても、

自分が死ぬまでに、

差別根絶はないだろうと思っています。

 

LGBTの人たちに対する差別とか偏見、

年々なくなっているよね!」

 

いいえ、まだまだありますよ。

「バイはいいけどホモは無理」とか

「百合は許せるけど薔薇は気持ち悪い」とか

ここ数年で冗談で無く本気で言われました。

 

だからこそ、気が遠くなるような話ですが、

相手の性自認がシスであり、

性的指向ヘテロである前提を

取り払っていくことが鍵となると考えています。

 

 

 

今回の一件も、私は強い憤りを感じました。

「生産性」がないってなんぞや、と。

 

しかし、それに対するコメントにも、

一部、感情論的な罵詈雑言が見られました。

そこから解決には至らず、

亀裂が深まるだけであるような気がしました。

(かといって、聞く耳を持たない相手に対しては

どうすればいいのか、、、)

 

上から物を言うわけではないですが、

私は同じ穴の狢に陥りたくないと思ってます。

 

意志は強く、けど心は冷静に。