寝た子を起こすな論への反駁
こんばんは。
今日は「寝た子を起こすな論」について書きます。
寝た子を起こすな論とは、
差別問題や性教育において
「あえて教える必要はない」
「わざわざ教えるから差別が生まれたり
性への関心を刺激するのだ」
換言すれば「なにも知らない無垢な子(寝た子)に
わざわざ知識を植え付けるな(起こすな)」
という論です。
みなさんはどう思われますか?
私はこの論には反対です。
以下理由を述べます。
(主に差別問題の文脈で)差別される側の存在は?
差別されるという事実は悲しいながらもあります。
なんらかの理由で差別されるマイノリティ当事者は
こうしたことを教えないと、
教育の中で「いないこと」にされます。
実際、家庭においてある親が
「〇くんは△地区の子でしょ?遊んではダメ」
「同性愛なんて気持ち悪い」
というようなことが言われたとしましょう。
〇くん(と〇くんと遊んではいけないと言われた子)や
性的少数者の子たちは、社会には
なんらかのルール、規範があるのだと学びます。
子どもたちは「差別する人/差別される人」という
境界線を「自然に」、ゆえに多くの場合
(全員とは言いませんが)誤った形で学びます。
学校ではこれを「正しく」教える必要があるのでは
ないでしょうか?(もちろん家庭でも正しく教えられるに越したことはありません)
「こうした問題がある、しかし間違いである
差別してはいけない」というメッセージを
きちんと教えれば子どもたちは変に歪むことなく
受け入れると思います。
これはユートピア的観測でしょうか?
詳しく網羅的に教える必要はないと思います。
ただ「いるんだよ、けどおかしなことではない、
間違ったことではないからね」ということを
真剣に話すことが大切だと考えます。
それを原因としていじめが発生したりした場合、
毅然とした態度で「差別はいけない」と接する。
このような人たちが周辺化される事態は
間違いであると将来の担い手にしっかり教えるべきだと思うのです。
全ての大人が差別偏見意識を持っていなければ、
寝た子を起こすな理論は有用かと思います。
しかし悲しいながらもそうではありません。
誤ったかたちで伝えられるこうした問題を
中立的に学ぶ機会が必要ではないでしょうか。