雨橋のつぶやき日記

ゲイの文系院生、考えたことをつらつら書いてます。

孤独死が嫌でも籍入れられない。

今日は久々にがっつりバイト…

なっかなかに疲れました。

連日夜勤できていた頃より

かなり身体にボロが来ていますね。

 

さぁ、今日の記事はいつも増して

美化すればエッジが効いている、

率直に言えば、かなり偏屈かつ粘着質です。

一瞥の際はご注意願います(笑)

あとどれも個人の一意見で、

こんな意見の人もいるんだーと流してください。

 

さて、帰ってきてニュース記事を読んでいると

孤独死したくなければ30〜35歳の間に

誰でもいいから籍をいれろ」と言う発言が

物議を醸しているらしいですね。

 

少し前の私なら「おいおい!私は!どうなるの!

法的に結婚できない人間は無視?」

みたいな気持ちになっていたと思います。

しかし。今の捉え方としては、

第三者として「わー揉めてる揉めてる」

って感じになりました。

 

捻くれた意見ですが、

言葉を選ばなければ

「社会に結婚させてもらえない人間」として、

結婚できる人たちの議論に

「籍を入れられない私たちはどうするんだよ!」

みたいな意見も含め

叛旗を翻すのをやめようと思い始めました。

 

言ったところで何かが変わるわけでもなく、

むしろ「それとこれとは話が別です」みたいな

対抗馬が出てきてもそれはそれで面倒だし。

 

ちなみに私自身は孤独死しても全然いいです。

「社会で孤独死が起こってもいい」

というような意見ではありません。

ただ私自身は一人で死ぬことに抵抗は無いです。

最愛の人に看取られて、家族に悲しまれながら…

なんて思いません。

「もし生まれた時から

家庭を持てる選択肢があったなら?」なんて

机上の空論で、ifの話をするのも

なんか虚しくなるので

最近はしないようになりました。

 

(社会における)結婚に関する議論には

干渉したくないというか、

「どうせ何言っても自分たちは枠外っしょ?

ならできるもの同士勝手にやってろ〜」

みたいなスタンスに陥ってしまいましたね。

…まぁよろしくはないのかな。

(ちなみに仲のいい友達の結婚を妬んだり

そんなことはしないです)

 

なお孤独死に抵抗がない理由として、

いやだって死んでるし、特に信仰とかないし…。

私自身の死後についてですが、

死んでまで申し訳ないけど生きてる人たちで、

言い方を選ばなければ「処理」してください、

という感じです。

 

もちろん孤独死したくない人も多くいます。

私みたいなスタンスの人が意見を主張することで

他の意見の人たちが「見えない」こと、

これに関しては良くないと思っています。

これは結婚も同じ、

私が結婚に興味ない=ゲイは結婚に興味ない

ではありません。

私が孤独死を厭わない=皆が孤独死を厭わない

でもありません。

 

性産業も然りですね。

したくてしてある人が

「したくてしてるー!」と主張することで、

決してしたくないのに就いている人が

不可視化されてしまうことは問題だと思います。

 

 

 

良く言われます。

「議論は重ねてナンボ!」だと。

「何事も主張しなきゃ始まらない!」みたいな。

けど私はヘーゲル弁証法みたく

イチゴが食べたいvs大福が食べたい→イチゴ大福!

のように高次な展開になる気がしないんですよね。

というか、気がしなくなった?

結局イチゴだけが食べたい人が権力を持っていれば「大福なんかいらない!」とされ、

高次に話が進まない。

 

そんな気がしています。

はぁダメダメこんなんじゃ!

今日は疲れた!明日からまた頑張りましょう。