雨橋のつぶやき日記

ゲイの文系院生、考えたことをつらつら書いてます。

「かわいそう」という暴力?

「かわいそう」という言葉、

私は普段あまり使うことがないです。

私見ですが、使い方を誤ると

勝手に暴力を振るったり

矛盾を生んだりすると思うからです。

 

ニュース記事とか、トレンドをみていると、

感想として「かわいそう」という言葉が

散見されます。

 

今日はそのことに関し、以下私の考えを述べます。

なお、言葉が拙く批判的な口調となっていますが、

それぞれ「意見の表明」は自由だと思っています。

なのでそれらの意見に是も非もないと思いながら、

私も意見を表することは自由だという考えのもと

いくらか例を挙げて書きます。

 

 

 

たとえば以前記事として書いたことがあるのですがポリアモリーに関する意見として

(ポリアモリーとは二人以上と同時に、

合意の上で恋愛関係を結べる人やその考え方です)

「一人を愛せないなんてかわいそう」

という意見がみられました。

 

あと日本では珍しい動物の料理などにおいて

「〇〇を食べるなんてかわいそう」など。

 

言いたいことはわかりますし

もちろんこれらも1つの意見だと思います。

 

ただ、たとえば前者の場合、

「かわいそう」と決めつけるのも

どうかと思う自分がいます。

「一対一」で、誰か一人を愛することが

常識、当然なのかな、とか。

「ポリアモリーはかわいそう」というのは

ある意味「本来一人を愛すべきなのに」という

決めつけみたいなものがある気がします。

複数人と「合意の上で」恋愛関係を結んでいる間で

「本来一人を愛すべき」という前提は

なりたたず、文脈が異なると思います。

 

また後者の場合は、

「え、なら牛や豚と何が違うの?」

と思ってしまうんですよね。

「牛、豚、鶏、魚」などは食べながら

主流ではないものは「かわいそう」、、、

もしこの意見を出した人が

ベジタリアンヴィーガンなら何も言えませんが

牛や豚との違いは何…と

主張の中に矛盾?というか、

私の中で腑に落ちない部分は否めません。

 

もちろんそのようなコントロバーシャルな記事ではコメント欄には賛否両論あります。

 

私自身のスタンスとしては

自分自身が誰かに勝手に暴力を振るう?というか

自分の主義主張を押し付けたり、

また矛盾を抱えたくないので

「かわいそう」という言葉を使うときは

注意が必要だな、と思っています。

 

余談ですが実際、結婚できないことによって

「かわいそうなゲイ」扱い、

いわば不幸視されることもありますが

私自身、別に結婚やモノガミー関係(一対一関係)に

特別重きを置いているわけではないですし、

言い方はきついですが

「かわいそう」と思われる筋合いはありません。

 

また世間一般には「かわいそう」と

思われるような境遇に置かれた友人曰く

「勝手にかわいそうとか言わないでほしい、

触れてはいけない!みたいな感じになってるけど

『かわいそうに』とか上から目線が嫌」とのことで

「かわいそう」の捉え方は人それぞれですが

概して苦手な人もいることを忘れたくはないです。

 

「かわいそう」という言葉が使われるとき

そこには権力関係というか

「上(自分が常識としてその他に安住する人)と

下(不憫で変えなければいけない、変わるべき人)」

のような格差のようなものができる気がします。

 

 

 

以上、私の意見を書きました。

おそらく正解や不正解はないことを前提に

こんな意見もあるんだと捉えていただければ

幸いです。